英雄についての考察

2009/11/18 22:10


 日本人の精子の数は年々減少し続けているらしい。あるいは、それがこの国の少子化の一因かもしれない。
 でも、ここで述べようとしているのは、そういう話ではない。年々減少し続けているといっても、その一回の射精における精子の数たるや、日本の総人口よりも多いに違いない。なぜこんなに無駄とも思えるほどの精子を、わたしたち男どもは放ちつづけるのか(中にはとっくに打ち止めされた方もおられるかもしれないので、その方々には謹んでお詫びを申し上げておく)。目的の卵子にたどり着き、念願の合体を果たすのはたった一匹の精子だけだというのに。
 このような疑問を持たれた方のみ以下をお読みいただきたい(CMではないが気をもたせるのだ)

 少し前に蜂の話をした。蜂は、女王を中心に働き蜂や兵隊蜂などがいて一つの社会を形成していると。
 このうち、兵隊蜂はその名のとおり、敵と戦い巣を守る任についている。たとえばミツバチは、スズメバチのような強力な敵に襲われたとき、それこそ何百何千もの兵隊蜂が結集し死に物狂いで巣と女王蜂を守ろうとする。
 敵は少数とはいえ一騎当千のつわもの。その強力な顎でミツバチなどつぎからつぎへと食いちぎっていく。しかし、ミツバチは仲間がいくら殺されようと決して怯まない。次々と襲い掛かって、ついにはその熱でスズメバチを疲弊させ殺してしまう。余談だが、この戦法は、ハイパーサーミア(温熱療法)とも呼ばれ、がん治療に使われている。

 ハミルトン以前なら、このような兵隊蜂の行動は、献身、自己犠牲、あるいは英雄的行為と思われたかもしれない。しかし、ハミルトンは、わたしたちの身中でもこれと同じようなことが行われていることを見抜いた。免疫がそれである。つまり、兵隊蜂といっても、もともとは女王蜂と同じ遺伝子を持つ個体が、恰も体内の白血球と同じように防衛機能として特化されたものなのだ。
 だから、いくらなんでも兵隊蜂を英雄と称えることはできないだろう。
 同じように、母親がわが児に母乳を与えるのを決して献身とは呼ばない。
 では、たとえば消防士が危険を冒して火中に飛び込み、まったくの他人を助けたとしたら、これは英雄的行為といえるだろうか? 否である。なぜなら、それは自己の職業に対するプライドから、あるいは保身のためであるから。つまり、自分自身のためにとった行為であるから。このような答えが返ってきそうな気がする。

 自分と血縁関係にあるもの、つまり自分と遺伝的により近いもののために自己を犠牲にする行為は生物学的に理解しやすい。しかし、遺伝子がより近い場合ほど、その行為はたとえ自己犠牲を伴ったとしても「英雄的」とは遠くなる、これが英雄の法則であろうと思われる。
 たとえば、地獄変の主人公猿秀のやったことは、英雄的とは真逆の行為である。芸術的には崇高であっても一般的には人非人の謗りを免れない。そのために、彼はついには自らを縊ることになったのである。
 
 それでは、神風、あるいは回天による特攻はどうであろう。先に述べた法則に沿えば、立派な英雄的行為ではなかろうか。なぜなら、彼らは同じ日本民族とはいうものの、直接的には自分の遺伝子とは関係のない多数の他人のために死んでいったからである。
 しかし、日本という国の文化や伝統といった、いわば自らの肉体の外にあるDNAのために死んでいったと考えるなら、彼らの犠牲もまた生物学的ととらえられるかもしれない。

 冒頭の精子の話の答は、人間という生き物は乱交好きの、結局はすけべな生き物に過ぎないということの証左でもある。なぜ、ああも多くの精子が必要か、それは精子の中にも兵隊蜂のような役割のものが大多数いて、仮に卵子にたどり着く特権的精子が王だとすると、その王を守るための騎士として存在するのである。なぜか? それは、人間という生き物は乱交好きの、結局は助平な生き物に過ぎないからである(何度も言わせんといて)