人と犬、どちらが高貴か

2009/11/14 17:57

 人間と他の動物、たとえば犬なんかと比べてどちらの方がより高貴なんだろうと考えることがあります。なにをばかな、という方も大勢おられることでしょう。確かに犬と人間とでは比較にならないくらいに人間の方が偉い!? でも、何が? と聞かれたときに、ここがだよ!と胸を張って答えられる人っているでしょうか。
 ずいぶん昔のことですが、わたしは、あるお寺の境内でスピッツらしき親子が追いかけっこをしているのを見たことがあります。その境内というのは、石段を何十段も上がったところにあって、スピッツの親子は、その石垣の上の草むらになったところで、ぐるぐると輪を描いて走りながら、どちらがどちらを追いかけているのか分からないほど、遊びに夢中になっていました。
 わたしは、その仲睦まじさを微笑ましく思いながらずっと観察していたのですが、ふと気がつくと、仔犬が草に足をとられて前につんのめり、そのまま顎を草に滑らせながら石垣から転落してしまったのです。しばらくして、キャンという仔犬の泣き声が下の方から聞こえてきました。
 そのときの親犬の表情をわたしは一生忘れることがないと思います。その真っ白な毛に覆われた顔が蒼ざめたように思えたのです。親犬は、まっしぐらに石段を駆け下りていきました。
 わたしも急いで石垣の下を覗いてみると、幸いなことに下が砂地だったこともあり、仔犬はまったく無事のようで、親犬の方も嬉しそうに仔犬とじゃれあっていました。


 以上、他愛もない話を書き連ねましたが、わたしが冒頭に振った枕には、決して人間だけが尊い生き物なのではないのだといういわば信念があります。
 昔の日本人は、誰の言葉かは失念しましたが次のようなことを言っています。
 一番の愛は母の愛で、二番目は犬の愛である、と。男女の愛などは、論外で、もっともっと下の方におくべきものであると。もともと、仏教は「愛」を煩悩としてとらえていますから、ちょっと前までの日本人(わたしなどもそうですが)は、「愛」という言葉をよほどの必要があるとき以外は使わなかった。というより、使うことに恥ずかしさを覚えた。男女間の愛というやつについても、褥の中では実際どうだったかは知りませんが、たとえばアメリカやイタリアの男が妻や愛人にのべつまくなく「愛してるよ」などと言うのをテレビで見るたびに何か奇異さを感じたように思います。
 もう一つ、動物の気高さについての例を上げるなら、シートンの狼王ロボの話があります。ロボのようなリーダーのことをアルファ雄といいます。ご存知のようにロボの配偶者はブランカと名付けられていますが、このような雌をアルファ雌と呼びます。
 それはともかく、ロボは大変利口なリーダーで、人間が工夫をこらした罠にも決して引っかからなかった。しかし、ブランカが人間に捕まり、そのために自分自身もついに人間の罠にはまってしまいます。シートンは、ブランカの死を覚ったロボの咆哮を今まで耳にした事がないほど痛切な悲しみを感じさせるものだったと記述しています。そして、食べ物を与えても決して口をつけようとはしなかった。そして、ついには死んでしまうのです。狼らしく、決して人間などに恭順の意を示すことなく死んでいった。
 どうです、実に誇り高いではないですか。


 なぜ、こんな話を長々と続けるかといいますと、例のぽっぽぼっちゃまのお唱えになる「友愛」とやらが、わたしにはちゃんちゃらおかしいからです。
友愛というのは、おそらくワーナーブロスとか何とか兄弟社とか、その辺の、キリスト教的な原語から来ているものだと考えますが、先に述べた犬の愛、狼の愛から比べてみても、そこには何か胡散臭い人間の打算のようなものが伺われて、わたしのように単純な本能のままに生きている者にはどうにも受け入れがたい代物に思われるのです。ですから、たとえば右の頬を打たれれば左の頬を差し出すようなまねは到底出来ませんし、敵を愛するなどもってのほかと思っています。
しかしわたしは、神様がわたしたちの中に仕組んでくださった動物としての愛についてなら心から信じることができます。
 前にも書いたことがありますが、特攻隊員として死んでいった若者たちの祖国愛も、究極的には、このような、動物的な愛が最高レベルにまで昇華されたものとしてとらえるならば、理解はそれほど困難ではないと思うのです。