人間原理について

2009/11/15 20:27


 一回性という言葉は、良く味わって聞けば、腹にずしんと響く重い言葉である。
 当たり前のことだが、わたしたちは、ただ一度だけの命を与えられた。わたしたち生き物だけではない、すべてのものが、それをどう名づけていいか分からないが、ただ一回だけの「命」を与えられた。雲の形も流れる水の姿も、土井晩翠が栄枯盛衰の人の世と対照すべく詠んだ月も、エントロピーの法則には逆らうことはできない。

 U235(ウラン235)という物質がある。いま、北朝鮮やイランなどが各国の制止を振り切って濃縮に躍起になっている核爆弾の素である。
 ウラン鉱石中に0・7%しか存在しないこの物質について、これが濃縮し地球上で大爆発を起こす可能性を計算されたことがおありだろうか。
 
 計算するまでもない。その可能性は、100%である。現に何度も、何百回も爆発を起こしている。なぜか? 人間が存在するからである。偶然には絶対に起こり得るはずのない核分裂反応が、この地上に人間が存在するために、いとも簡単に起こってしまうのである。

 人間は、プロメテウスから火の種を貰って、薪から石炭、石油、そして原子力と、強力な火へと発展させ、おそらく今世紀末には核融合炉まで完成させるであろうところまで来た。
 ここで大変おもしろく感じられるのは、プロメテウスはさておき、何者かわたしたち人類をはるかに凌ぐ高位な存在が、恰も母親が我子に最初は母乳を、次には離乳食をと、その成長に合わせて与えていくように、それらの燃料を予め用意してくれていたかのように見えることである。

 だが、そんなことは断じてない。人類を導いてくれる高位の者など決してこの宇宙には存在しない。人類は、自分たちの始末は自分たちでつけなければならないのである。

 わたしたちが、高位の者の存在を考えたり、この地球に存在し今を生きていることを奇跡のように感じる、今私自身がこのような文章を熱に浮かされたように書いていること自体を、非常に不思議な、U235核分裂よりも有り得ないことのように感じること、これらはみな人間原理と呼ばれるものの仕業なのである。

 (人間原理を、わたしはダーウィンの進化論に良く似た原理として捉えている) もしも「わたし」が生まれなかったならば、この宇宙は存在しなかったも同然である。この宇宙と「わたし」との関係は、母と子の関係とまったく同じに思われる。
 なぜ、この「宇宙」が存在するのかという問いは、なぜ「わたし」の「母親」はあの女なのかという問いと同じものである。
 「わたし」がいるから、あの「母親」が存在するのであり、「わたし」が生まれなかったら、当然あの「母親」も存在しなかった。しかし、現に「わたし」が存在し「母親」を意識している。他でもない、あの「母親」をである。他の女が自分の「母親」になる可能性など最初からなかったのである。
 この「宇宙」も、その誕生のときからすでに「わたし」を孕んでいたのである。

 一回性に話を戻せば、わたしたちは、このことをどこか頭の隅に置きながら日々を生きている。自分がただ一度きりの存在で、死んでしまえば何も残らないことを知りながら生きている。自分という存在が、その内部にブラックホールダークマターやわけの分からぬものをいっぱいに抱えたこの宇宙と一体のものであることを漠然と意識しながら生きているのである。
 そして、人類全体としては、この宇宙がわたしたちを存在させた、その必然性の行き着く先を見極めようと生きているのである。