ノーブル・オブリゲーション

2009/11/29 23:28


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貴族には青い血が流れているそうである。その青い血を持つ人々には一つ大きな共通点がある。それは世界中どこでも同じはずである。これをノーブル・オブリゲーション――貴族の義務と言う。早い話がいざ戦争となったら、真っ先に第一線に赴かねばならない。平時においても、民草たちの模範となるべく品位ある行動をとるのは当然である。そうでなければ、良くも悪くもこの民主主義の社会で誰が青い血など敬ったりしようか。血が青いというだけなら烏賊だって敬わねばならない。
 なぜ、こんなことを書くか。実はわたしは憤慨しているのである。それは、本日付の産経の「イベントご参加慎重に」という記事のせいである。いや、記事そのものに憤慨しているわけではない。白浜正三氏にはよくぞ書いていただいたと敬意を表したいくらいである。実はこの内容については文春でも読んで知っていた。
 わたしが憤っているのは、軽々しく皇室を政治利用した側と、常識的に考えて明らかに政治利用と判断できるイベントであるにも関わらず、利用されてしまった側――皇太子さまを取り巻く側近たちの不甲斐なさにである。
 わたしは、皇室を敬愛するからこそ、こうして苦言を呈するのである。前の戦争では多くの若者が天皇陛下万歳を叫んで死んでいった。皇室と日本という国が末永く続くことを心の底より願って死んでいったのである。このことに報いるノーブル・オブリゲーションは、わたしにはそれほど難しいことには思えない。中国人民解放軍による中国オペラの鑑賞などきっぱりとお断りになれば良かったのである。

今日の産経から

2009/11/29 00:42


今日(11月28日)の産経新聞。「昭和正論座」は非常におもしろかった。「夢想家が権力を握るとき」と題する昭和51年12月1日に掲載された京大教授会田雄次氏の論稿である。
この中にアーミッシュ教徒について触れた部分がある。ご承知のようにアーミッシュの人々は、アメリカで18世紀そのままの生活をしている。会田氏は、この人々を批判しているわけでも賛美しているわけでもない。氏は、わたしなりにダイジェストして言えば、自分勝手な理想を唱えるなら、アーミッシュの人々のように一般社会と隔絶した地域でおやりなさいと述べているのだ。
わたしは、産経は非常にずるい、いや賢いと思う。なぜなら、わたしのような単細胞生物に誘導尋問をかけているからである。なぜ、いまどき33年前のこの論稿なのか。答は、簡単である。例の友愛というやつだ。友愛という、誰しも真正面からは否定できない日本国首相の理想主義を哂わせるために、この随分と古くはあるが至極まっとうな意見を掲載したものと考えて間違いない。
CO2を25%、しかも1990年レベルと比較して削減することは、地球が長期的に見て温暖化しているかどうかわたしなどにはよく分からないが、ツバルなどの国の人にとっては理想的であるかも知れない。「日本列島は、日本人だけのものじゃないんですから」という主張は、世界主義という理想には叶うものかも知れない。しかし、鳩山首相。わたしは、この欄を読んだ多くの読者と共に声を大にして訴える。

わたしたち1億3千万の日本人をあなたの理想主義の犠牲にしないでいただきたい。あなたの理想は、あなたの奥様と一緒に金星にでも行って実現していただきたい。

好奇心について

2009/11/28 01:12


 
 コンラート・ローレンツの「ソロモンの指輪」に次のような話が出てくる。ある日、ローレンツの母親(だったと思う)が編み物をしていた。それを家の中で放し飼いにしている鸚鵡がしきりに首を傾げながら見ていた。
 それからしばらく経ったある日、ローレンツが庭に出てみると、大きな木がぐるり一面、色鮮やかな毛糸を巻かれてクリスマスツリーのようになっていた。

 もう十数年も前の話になるが、白い鸚鵡に指を咬まれたことがある。その日、あるペットショップで、わたしはその鸚鵡が両足と嘴を器用に使って御神籤のように捻った紙きれを解こうとしているのをじっと観察していた。ところが、何を思ったのか突然店員がケージまでやってくると、中に手を入れてその紙を取り上げてしまったのである。鸚鵡はよほど頭にきたらしく、不用意にケージに手をかけていたわたしの右手人差指に思い切り噛み付いた。八つ当たりである。わたしはびっくりして手を引っ込めたが、奴さんのほうもわたしの驚きようにびっくりしたらしく、ケージの中で羽が抜けて飛び散るほどはばたいた。
それからもしばらく、わたしは右手人差指を摩りながらその鸚鵡を観察していたのだが、奴さん、なかなか怒りが収まらない様子で、止まり木を右に行ったり左にいったりしながらキーキー鳴きつづけていた。


 好奇心は、鸚鵡に限らず知能の高い動物に共通の性質である。鴉なども非常に好奇心が強く、これなども「ソロモンの指輪」の中でおもしろく述べられている。

 しかし、この好奇心というやつ、明らかに年齢と共にだんだん弱まってくるらしい。英語の文句に「老いた犬は芸を覚えない」というのがあるが、たしかにその通りで、わたしなども昔はそれこそ好奇心旺盛で、小学生の頃からエロ雑誌の愛読者だった。百科事典で性の字のつくところは余すことなく読了した。しかし、今はさすがに性の探求に精を出す気にはなれない。好奇心を使い果たしたわけではないだろうが、やはり若い頃に比べれば格段にその力は弱まったと認めざるを得ない。
 
 それにしても、好奇心とはいったい何であろうか。何のために、動物に備わっているのか。
わたしは、このように考えている。つまり、わたしたち動物には本能という生存に欠かせない基本ソフト(OS)が予め仕組まれている。しかし、本能だけでは、様々な外乱により千変万化する環境には適応できない。たとえば、目の前に現れたこれまでまったく見たこともない動物。それが果たして自分の天敵なのかそれとも餌になりうるものなのか、よく観察して見極めなければならない。そのためのアプリケーションプログラムが好奇心なのである。

 

好奇心がなければ、動物は何も学ばない。特に人間の場合は、自身を取り巻く環境は非常に複雑怪奇である。 
たとえば「わたし」は保守の一員である、真性の保守たらんといつも心がけている。しかし、それが本当に正しく良いことなのであろうか。常に疑いをもって考えてみることも必要なのではないか。
人は一人でいるときと集団の一員になったときとでは、蝗ではないが性質まで変ってしまう。わたしたちは往々にして、何らかの組織に属していることにより、その組織の色に染まり、あるいは領域に留まり、自分自身の視野や世界や世間を狭くしてしまいがちである。

同士からの批判を避けるために、その主張まで本心を偽って捻じ曲げたり、あるいは阿ったものになっていないか。また、考え方に自由度がなく頑固で一辺倒なステレオタイプの思考に陥っていないか、わたしたちは常に検証してみる必要があるように思う。

幸いなことに、人間はその意志の力により好奇心を刺激し、狭窄した視野を広げることができる。わたしも、これから敵の研究にもう少し腰を据えて取り組み、日本を守るための戦略と戦術について考えていこうと思う。

男と女について

2009/11/27 11:04

 


小学生のころ好きだった女の子の名前が陽子だった。大人になってからもしばらくは陽子という名前を耳にするたびに心がときめいた。
ところが、あるとき突然、風天の寅さんが女装したような顔のおばはんが出てきて、男女同権だの、ジェンダフリーだのセクハラだのとテレビの外にまで唾が飛んでくるのではないかと思うくらい口角泡を立てまくし立てるのを聞いて、こんな陽子もいるのかと、がっくりした。

 

 わたしは男女同権に反対する者ではない。しかし、儒教的な「男女7歳にして席を同じくせず」という考え方には賛成である。

うろ覚えで正確さには欠けるが、わたしなりに消化し、血となり肉となった「犬のディドより人間の皆様へ」(原題:One dog and her man)という本の中に次のようなエピソードがある。昔のロシア貴族の話である。暖かな暖炉の前の賑やかな晩餐が終わって、猟犬たちも腹いっぱいで床の上に寝そべっている。しばらくして、トランプか何かに興じるのであろう、男たちだけのお楽しみの時間となった。するとどうだろう。雌犬たちだけがふと顔を上げ、部屋を出て行く女たちの後を追っていく。しかし雄犬たちはさも当然そうに部屋に残っているではないか。

犬は2歳から2歳半程度の人間の幼児並みの知能を持つと言うが、この話からも判るとおり、明らかに男女、雌雄の違いを認識している。このように犬でも判ることが判らぬ人間が多くいる。冒頭の顎の張ったおばはんはどこかの大学の先生だそうだが、おそらくその筆頭格であろう。

わたしは、常々男よりも女の方が優れていると思っている。何をやらせても女の方がそつがない。それに比べて、たいてい男のやることにはどこかばかな、理解に苦しむようなところが少なくない。喧嘩を好み、いろいろと理屈をつけては戦争をする。相手を屈服させたり侵略を試みたりするのが大好きなのである。
だがそれにしては、世の天才と言われる人たち、たいていは男である。音楽、絵画、建築、数学、物理、技術、発明、発見、どのような分野をとりあげてみても超一流、あるいは天才と呼ばれるのは男である。これはなぜなのだろう?
わたしの理論ではこうなる。つまり、男というものはそもそもが特殊なつくりの生き物なのである。蜂に例えれば、兵隊蜂や働き蜂に相当する何か特別な目的のためにその種の才能を特化させた生き物なのである。
コンピュータの父と呼ばれる天才フォン・ノイマンなどは、その典型であろう。彼は、電話帳をぱっと開いて、そこに書かれている数字をあっという間に足し算できたと言う。その彼がエニアックが完成したときに言った言葉が奮っている。「俺の次に利口な奴ができた」と宣ったそうである。そんな彼の趣味はスカートめくりだったというから、やはり数学的才能が跳び抜けている分、常識的な能力にはどこか欠陥があったのだと思われる。
また、日本の生んだ鬼才、南方熊楠などは褌一丁で紀伊の山中をかけ回っていた。昭和天皇に自らの発見した新種の粘菌を献上したときには、桐の箱に入れるべきところをキャラメルの箱に入れてお渡ししたと言うから、先帝陛下の顔も思わず綻んだに違いない、とこちらの顔さえ緩くなってくる。熊楠の場合は、天衣無縫と言うより、おそらく子供のように無邪気だったのだ。

要は、こういう天才たちの脳は、女のそれとは違って、どこか一部分が異常に過敏になっているのだ。あるいは、抑制が効かなくなっていると言ってもいいかも知れない。おそらく、その理由は、原始時代にまで遡る。
原始には狩の能力に長けた男や、弓や槍を作るのが上手い男が生き易かった。そういう極めて限定された特殊な能力だけがその時代の環境には適合したのである。女もそういう男を好んで選んだ。
今日では、こういう特殊な才能は人口の爆発と共に多種多様な花となって開いたが、それは現代の環境がそれを許容できるだけ広大なものになったからである。
わたしの考えでは、こういう一般的な能力を特殊なものに変容させるもの、それがテストステロンなど男性ホルモンなのである。逆にエストロゲンなどの女性ホルモンは、人間が本来持つ一般的、常識的な性質を守り保つ役割を果たしているのではないだろうか。それは例えば部族や家庭内の平和を保つためのコミュニケーション能力であったり、子供を教育する能力であったりする。

小松左京の短編SFに「アダムの裔」というのがある。この小説に描かれるある未来では、男はなんと張型になってしまっている。つまり、そのシンボル(一本のバットと二つのボール)そのものに成り下がっているのだ。
わたしは小松左京の洞察力というか慧眼にはいつも驚かされぱなしなのだが、氏の着想どおり、男というものはY染色体の研究結果から、ほとんど中身のないスカスカな生き物であることが分かってきている。
このようなスカスカな生き物がやれ経済や政治やなどと一人前気取りでいるのはチャンチャラおかしい。いっそどこか北欧の国のように、そういう難しく高等な判断力を要することはすべて女性にお任せして、男どもは毎日みんなして狩や釣りに出かけ、夜には酒でも飲んで騒ぐのが一番であるとわたしは思うのだが、女性の皆様がたはいかがお考えであろうか。

ウィルスとがん(二日目)

2009/11/25 22:05


 昨夜は、ウィルスとがんについて書こうと思ったのだが、ついついアルコールの魅力の方に負けてしまった。めったにないことだ。

 で、なにを書こうとしていたかというと、この国に巣くっているウィルスおよびそれに感染してすでにがん化している多くの臓器についてである。

 わたしは、国体の中枢にまですでにこのウィルスは巣くっていると考えている。
はっきり言おう。このウィルスとは在日のことである。このウィルスにより、多くの日本人と日本の組織が反日という名のがんに侵されてしまった。

 日教組:これは教育という国の大事な臓器を侵すがんである。切除する以外にもはや日本の回復はない。
 マスコミ:これもがん化し浸潤している。健全な部分は「産経」などの新聞を除きほとんどない。
 政治:ミンスというがんに侵され回復はきわめて困難である。
 法曹、警察:ソーカという分ったような分らないAIDS様のウィルスに侵されているため、この国は免疫力を失いつつある。
 経済界:言うまでもない。

 しかし、ウィルスもがんもばかであることに違いはない。どちらも宿主である日本の体力を衰えさせ、最後には滅亡させてしまうだろう。そして、その結果、自らも滅亡への道を辿るしかないのだ。
 この資源に乏しい小さな国で、日本人は自らの徳を磨き、お互いに助け合い、知恵を捻ることによって豊かさを得てきた。物質的にも精神的にも、世界で最も豊かな国を築き上げてきたのだ。人だけが人財といってもよい資源の国だったのだ。

 その本質を、この国の徳の高さを知らずに、豊かさだけを横取りしようとしても、結果はばかなウィルスと同じで自滅しかないということだ。それが分らぬおまえたちはウィルス以下のばか者どもということだ。

 そうです。大事なことを書き忘れていました。今日は、憂国忌三島由紀夫と森田必勝、二人の愛国者に謹んで黙祷を捧げます。

ウィルスとがん

2009/11/24 23:32


 今日はビールス・・・じゃなかった、ウィルスとがんについて書こうと考えていたが、ちょっとばかりビールが入って、頭も回らないので、明日にしようと思う。

 でも、何を書こうとしていたか忘れないように、それだけでも書いておこう。
 ウィルスもがんもばかだということを書きたかった。がんというのは、その多くがウィルスの感染によって起こることが分かっている。たとえば、政治問題になっているC型肝炎なども、ちょっと前までは非A非B型肝炎と呼ばれていた。血中のウィルス濃度が非常に薄くて、発見が困難だったのだ。AIDSのように性感染はしないとされている。主な感染経路は医療事故、つまり注射針の使いまわしとか、輸血および血液製剤によるものである。
 それはともかく、このウィルスは、感染から数十年後に肝硬変や肝がんを起こすことで恐れられている。そのほかにも子宮がんの原因としてパピローマウィルスというのがある。ATLという白血病をおこすHTLV-1というウィルスやキスで染るCMV、慢性疲労症候群悪性リンパ腫の原因といわれるEBVというのもある。
 でも、そんなことはどうでもいい。ウィルスは長期間感染していながら、大した症状を顕さないことが多いのだ(不顕性感染)。そして、何十年も経って、感染していることさえ忘れてしまった頃、いつの間にか正常な細胞をがん化させ、終には宿主ともども滅びてしまう。このことを書こうと考えていた。
 でも、もうやめた。頭がぜんぜーんまわりませーん。

一葉

2009/11/23 11:53

 

今日は新嘗祭。日本の海、山、野、里がこれからも豊穣でありますように。また、わたしたち額にあるいは健康な肉体に汗を流して働く者たちの仕事場が広く守られますように、畏れながら天皇陛下と共に祈りを捧げようと思います。

 産経新聞の「次代への名言」という欄がすばらしかったので、ご紹介します。


人間の愛情は親を思ひ、妻(夫)を思ひ、また兄弟を思ひ、大にしては国を思ふ

 妻のところは、わたしが勝手に(夫)を入れさせてもらいましたが、はたして誰の言葉だと思われますか。
樋口一葉です。以下は、産経新聞文化編集委員 関厚夫氏による本欄から拝借いたしました。

『明治29(1896)年秋、上田(敏)はすでに不治の病にあった一葉を見舞った。2人には珍しく、宗教観や霊魂の存在が話題になった。「霊魂の不滅を信じます」と言う上田に対し、一葉は冒頭のことばのあと、こう続けた。「こうした愛の存在は、霊魂不死ということを証明する唯一の最も有力な証拠でございましょう」それからまもなく、同じ年のきょう、一葉は逝った』
24歳であった。

今日が一葉の命日であったとは初めて知りましたが、それにしても24歳にして冒頭の言葉。人間原理の信奉者であるわたしが言うのも変ですが、やはり神には何か特別のお計らいがあるのでしょうか。
先日2012という映画が封切りになったばかりですが、わたしたち人間は、自分自身が明日をも知れぬ身でありながら、杞の人のように天が空から落ちてこぬかというような心配をします。ですから、この映画のような人類滅亡をテーマにした人々の脳幹にある恐怖を煽りたてる映画が何度も何度も出てくるのです。
しかし、一葉が言うように、それは本当は人間が根源的に持つ深い愛情の証であり、これなくしては今日の人類の繁栄はなかったのだと思います。おそらく一葉は、ユングよりも先に人類の持つ集合意識的なものを感じ取っていた人だったに違いありません。恐ろしいほどに鋭敏な感覚の持ち主だったのです。

わたしは今日、5千円札をしみじみ見ながら心の中で静かに手を合わせようと思います。