男と女について

2009/11/27 11:04

 


小学生のころ好きだった女の子の名前が陽子だった。大人になってからもしばらくは陽子という名前を耳にするたびに心がときめいた。
ところが、あるとき突然、風天の寅さんが女装したような顔のおばはんが出てきて、男女同権だの、ジェンダフリーだのセクハラだのとテレビの外にまで唾が飛んでくるのではないかと思うくらい口角泡を立てまくし立てるのを聞いて、こんな陽子もいるのかと、がっくりした。

 

 わたしは男女同権に反対する者ではない。しかし、儒教的な「男女7歳にして席を同じくせず」という考え方には賛成である。

うろ覚えで正確さには欠けるが、わたしなりに消化し、血となり肉となった「犬のディドより人間の皆様へ」(原題:One dog and her man)という本の中に次のようなエピソードがある。昔のロシア貴族の話である。暖かな暖炉の前の賑やかな晩餐が終わって、猟犬たちも腹いっぱいで床の上に寝そべっている。しばらくして、トランプか何かに興じるのであろう、男たちだけのお楽しみの時間となった。するとどうだろう。雌犬たちだけがふと顔を上げ、部屋を出て行く女たちの後を追っていく。しかし雄犬たちはさも当然そうに部屋に残っているではないか。

犬は2歳から2歳半程度の人間の幼児並みの知能を持つと言うが、この話からも判るとおり、明らかに男女、雌雄の違いを認識している。このように犬でも判ることが判らぬ人間が多くいる。冒頭の顎の張ったおばはんはどこかの大学の先生だそうだが、おそらくその筆頭格であろう。

わたしは、常々男よりも女の方が優れていると思っている。何をやらせても女の方がそつがない。それに比べて、たいてい男のやることにはどこかばかな、理解に苦しむようなところが少なくない。喧嘩を好み、いろいろと理屈をつけては戦争をする。相手を屈服させたり侵略を試みたりするのが大好きなのである。
だがそれにしては、世の天才と言われる人たち、たいていは男である。音楽、絵画、建築、数学、物理、技術、発明、発見、どのような分野をとりあげてみても超一流、あるいは天才と呼ばれるのは男である。これはなぜなのだろう?
わたしの理論ではこうなる。つまり、男というものはそもそもが特殊なつくりの生き物なのである。蜂に例えれば、兵隊蜂や働き蜂に相当する何か特別な目的のためにその種の才能を特化させた生き物なのである。
コンピュータの父と呼ばれる天才フォン・ノイマンなどは、その典型であろう。彼は、電話帳をぱっと開いて、そこに書かれている数字をあっという間に足し算できたと言う。その彼がエニアックが完成したときに言った言葉が奮っている。「俺の次に利口な奴ができた」と宣ったそうである。そんな彼の趣味はスカートめくりだったというから、やはり数学的才能が跳び抜けている分、常識的な能力にはどこか欠陥があったのだと思われる。
また、日本の生んだ鬼才、南方熊楠などは褌一丁で紀伊の山中をかけ回っていた。昭和天皇に自らの発見した新種の粘菌を献上したときには、桐の箱に入れるべきところをキャラメルの箱に入れてお渡ししたと言うから、先帝陛下の顔も思わず綻んだに違いない、とこちらの顔さえ緩くなってくる。熊楠の場合は、天衣無縫と言うより、おそらく子供のように無邪気だったのだ。

要は、こういう天才たちの脳は、女のそれとは違って、どこか一部分が異常に過敏になっているのだ。あるいは、抑制が効かなくなっていると言ってもいいかも知れない。おそらく、その理由は、原始時代にまで遡る。
原始には狩の能力に長けた男や、弓や槍を作るのが上手い男が生き易かった。そういう極めて限定された特殊な能力だけがその時代の環境には適合したのである。女もそういう男を好んで選んだ。
今日では、こういう特殊な才能は人口の爆発と共に多種多様な花となって開いたが、それは現代の環境がそれを許容できるだけ広大なものになったからである。
わたしの考えでは、こういう一般的な能力を特殊なものに変容させるもの、それがテストステロンなど男性ホルモンなのである。逆にエストロゲンなどの女性ホルモンは、人間が本来持つ一般的、常識的な性質を守り保つ役割を果たしているのではないだろうか。それは例えば部族や家庭内の平和を保つためのコミュニケーション能力であったり、子供を教育する能力であったりする。

小松左京の短編SFに「アダムの裔」というのがある。この小説に描かれるある未来では、男はなんと張型になってしまっている。つまり、そのシンボル(一本のバットと二つのボール)そのものに成り下がっているのだ。
わたしは小松左京の洞察力というか慧眼にはいつも驚かされぱなしなのだが、氏の着想どおり、男というものはY染色体の研究結果から、ほとんど中身のないスカスカな生き物であることが分かってきている。
このようなスカスカな生き物がやれ経済や政治やなどと一人前気取りでいるのはチャンチャラおかしい。いっそどこか北欧の国のように、そういう難しく高等な判断力を要することはすべて女性にお任せして、男どもは毎日みんなして狩や釣りに出かけ、夜には酒でも飲んで騒ぐのが一番であるとわたしは思うのだが、女性の皆様がたはいかがお考えであろうか。