好奇心について

2009/11/28 01:12


 
 コンラート・ローレンツの「ソロモンの指輪」に次のような話が出てくる。ある日、ローレンツの母親(だったと思う)が編み物をしていた。それを家の中で放し飼いにしている鸚鵡がしきりに首を傾げながら見ていた。
 それからしばらく経ったある日、ローレンツが庭に出てみると、大きな木がぐるり一面、色鮮やかな毛糸を巻かれてクリスマスツリーのようになっていた。

 もう十数年も前の話になるが、白い鸚鵡に指を咬まれたことがある。その日、あるペットショップで、わたしはその鸚鵡が両足と嘴を器用に使って御神籤のように捻った紙きれを解こうとしているのをじっと観察していた。ところが、何を思ったのか突然店員がケージまでやってくると、中に手を入れてその紙を取り上げてしまったのである。鸚鵡はよほど頭にきたらしく、不用意にケージに手をかけていたわたしの右手人差指に思い切り噛み付いた。八つ当たりである。わたしはびっくりして手を引っ込めたが、奴さんのほうもわたしの驚きようにびっくりしたらしく、ケージの中で羽が抜けて飛び散るほどはばたいた。
それからもしばらく、わたしは右手人差指を摩りながらその鸚鵡を観察していたのだが、奴さん、なかなか怒りが収まらない様子で、止まり木を右に行ったり左にいったりしながらキーキー鳴きつづけていた。


 好奇心は、鸚鵡に限らず知能の高い動物に共通の性質である。鴉なども非常に好奇心が強く、これなども「ソロモンの指輪」の中でおもしろく述べられている。

 しかし、この好奇心というやつ、明らかに年齢と共にだんだん弱まってくるらしい。英語の文句に「老いた犬は芸を覚えない」というのがあるが、たしかにその通りで、わたしなども昔はそれこそ好奇心旺盛で、小学生の頃からエロ雑誌の愛読者だった。百科事典で性の字のつくところは余すことなく読了した。しかし、今はさすがに性の探求に精を出す気にはなれない。好奇心を使い果たしたわけではないだろうが、やはり若い頃に比べれば格段にその力は弱まったと認めざるを得ない。
 
 それにしても、好奇心とはいったい何であろうか。何のために、動物に備わっているのか。
わたしは、このように考えている。つまり、わたしたち動物には本能という生存に欠かせない基本ソフト(OS)が予め仕組まれている。しかし、本能だけでは、様々な外乱により千変万化する環境には適応できない。たとえば、目の前に現れたこれまでまったく見たこともない動物。それが果たして自分の天敵なのかそれとも餌になりうるものなのか、よく観察して見極めなければならない。そのためのアプリケーションプログラムが好奇心なのである。

 

好奇心がなければ、動物は何も学ばない。特に人間の場合は、自身を取り巻く環境は非常に複雑怪奇である。 
たとえば「わたし」は保守の一員である、真性の保守たらんといつも心がけている。しかし、それが本当に正しく良いことなのであろうか。常に疑いをもって考えてみることも必要なのではないか。
人は一人でいるときと集団の一員になったときとでは、蝗ではないが性質まで変ってしまう。わたしたちは往々にして、何らかの組織に属していることにより、その組織の色に染まり、あるいは領域に留まり、自分自身の視野や世界や世間を狭くしてしまいがちである。

同士からの批判を避けるために、その主張まで本心を偽って捻じ曲げたり、あるいは阿ったものになっていないか。また、考え方に自由度がなく頑固で一辺倒なステレオタイプの思考に陥っていないか、わたしたちは常に検証してみる必要があるように思う。

幸いなことに、人間はその意志の力により好奇心を刺激し、狭窄した視野を広げることができる。わたしも、これから敵の研究にもう少し腰を据えて取り組み、日本を守るための戦略と戦術について考えていこうと思う。